開戦
本日12月8日は真珠湾攻撃記念日です。
アメリカでもイベントが催されています。
特に今年は開戦80周年となります。
もう生きて真珠湾攻撃を体験した方が少なくなってきて、
話を聞ける機会も失われつつあります。
当時の記憶を語り継ぐことを様々な方がしてこられておりますが、
私もその一端を担っている者として
身が引き締まる思いです。
現在、大東亜戦争に関して
間違った教育がなされておりますが、
大東亜戦争は間違いなく自衛のための戦争でありました。
それはかのマッカーサーも認めるところであります。
その端緒が真珠湾でよかったのかどうかの議論はあるでしょうが、
私個人はアメリカと事を構えるのは無謀であったと感じております。
しかし石油禁輸、経済制裁、ABCD包囲網などによって
既に開戦状態であったアメリカとは、
いずれやりあわなければならない運命だったとも言えるでしょう。
私たちは大東亜戦争を自虐史観に寄らない見方で
正しく見極めなくてはならないとそう思うのです。
アメリカでもイベントが催されています。
特に今年は開戦80周年となります。
もう生きて真珠湾攻撃を体験した方が少なくなってきて、
話を聞ける機会も失われつつあります。
当時の記憶を語り継ぐことを様々な方がしてこられておりますが、
私もその一端を担っている者として
身が引き締まる思いです。
現在、大東亜戦争に関して
間違った教育がなされておりますが、
大東亜戦争は間違いなく自衛のための戦争でありました。
それはかのマッカーサーも認めるところであります。
その端緒が真珠湾でよかったのかどうかの議論はあるでしょうが、
私個人はアメリカと事を構えるのは無謀であったと感じております。
しかし石油禁輸、経済制裁、ABCD包囲網などによって
既に開戦状態であったアメリカとは、
いずれやりあわなければならない運命だったとも言えるでしょう。
私たちは大東亜戦争を自虐史観に寄らない見方で
正しく見極めなくてはならないとそう思うのです。
新「経世済民」新聞
「君たちはなぜ腹が立たないのか?」
1959年に広島を訪れた革命家ゲバラは
日本人にこのように激怒しました。
一体なぜ、ゲバラは広島で
激怒したのでしょうか?
キューバの外交使節として
来日していたゲバラですが、
「他の日程をすべて犠牲にしても、
原爆の慰霊碑に献花したい」
という彼の強い願いから、
当初のスケジュールを変更して、
1泊だけ広島へ滞在しました。
広島滞在を通して
ゲバラが目にしたものは、、、
原爆ドームや原爆資料館で目撃した
母子が重なり合って亡くなった写真
幼い子どもの焼死体の写真など
悲惨で残酷なものでした。
さらに、ゲバラは広島市の病院を訪れ、
そこで目にしたのは、、、
放射能の後遺症によって
肌が赤く焼けただれて、
全身包帯だらけで苦しそうにもがく
大勢の被曝者の姿だったのです。
このような広島の惨状を見て
ゲバラの怒りは高まっていきました。
そして、彼の怒りが頂点に達したのは、
原爆戦没者の石碑の碑文に
こんな言葉が刻まれていたからです。
「安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから」
ゲバラはすかさず通訳を介して、
「碑文にはなぜ主語がないのか」と、
外務省の職員や案内役の日本人スタッフを
厳しく問いただしたのです。
さらに、ゲバラの問いに返答もできずに、
ひたすら沈黙を続ける彼らに対して、
過ちがあるのは日本ではなく、
アメリカの方だと厳しく詰め寄り、
「アメリカにこれほど残虐な目に遭わされて、
なぜ君たちは腹が立たないのか」
と激怒したのです。
このエピソードを読んで、
あなたはどう思いましたか?
今年で終戦から76年が経ちました。
ところが、日本人は今でも、
「過ちは繰返しません」といって
危機が目の前に迫っていても
見てみぬフリをしています。
これは、戦後にGHQが
「敗戦の原因は日本人にある」
という自虐的な考え方を
日本人に植え付けたからです。
しかし、あなたはご存知でしょうか?
この自虐的な考え方のせいで、
日本の安全が失われつつあるということを。
そして、とりわけ、
日本のエネルギー安全保障が
危機的な状況にさらされているのです。
「エネルギー安全保障なんて、
自分には馴染みがない」
と思われがちですが、、、
あの独裁者ヒトラーや戦前の日本人も、
戦争に追い込まれてしまったきっかけは、
エネルギー安全保障だったのです。
一体なぜ、ヒトラーも戦前の日本人も
エネルギー安全保障が原因で
戦争に追い込まれてしまったのか?
現代の日本でエネルギー安全保障が
失われてしまうとどのように危険なのか?
詳しい内容は、
こちらをクリックして
ご確認いただけます。
1959年に広島を訪れた革命家ゲバラは
日本人にこのように激怒しました。
一体なぜ、ゲバラは広島で
激怒したのでしょうか?
キューバの外交使節として
来日していたゲバラですが、
「他の日程をすべて犠牲にしても、
原爆の慰霊碑に献花したい」
という彼の強い願いから、
当初のスケジュールを変更して、
1泊だけ広島へ滞在しました。
広島滞在を通して
ゲバラが目にしたものは、、、
原爆ドームや原爆資料館で目撃した
母子が重なり合って亡くなった写真
幼い子どもの焼死体の写真など
悲惨で残酷なものでした。
さらに、ゲバラは広島市の病院を訪れ、
そこで目にしたのは、、、
放射能の後遺症によって
肌が赤く焼けただれて、
全身包帯だらけで苦しそうにもがく
大勢の被曝者の姿だったのです。
このような広島の惨状を見て
ゲバラの怒りは高まっていきました。
そして、彼の怒りが頂点に達したのは、
原爆戦没者の石碑の碑文に
こんな言葉が刻まれていたからです。
「安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから」
ゲバラはすかさず通訳を介して、
「碑文にはなぜ主語がないのか」と、
外務省の職員や案内役の日本人スタッフを
厳しく問いただしたのです。
さらに、ゲバラの問いに返答もできずに、
ひたすら沈黙を続ける彼らに対して、
過ちがあるのは日本ではなく、
アメリカの方だと厳しく詰め寄り、
「アメリカにこれほど残虐な目に遭わされて、
なぜ君たちは腹が立たないのか」
と激怒したのです。
このエピソードを読んで、
あなたはどう思いましたか?
今年で終戦から76年が経ちました。
ところが、日本人は今でも、
「過ちは繰返しません」といって
危機が目の前に迫っていても
見てみぬフリをしています。
これは、戦後にGHQが
「敗戦の原因は日本人にある」
という自虐的な考え方を
日本人に植え付けたからです。
しかし、あなたはご存知でしょうか?
この自虐的な考え方のせいで、
日本の安全が失われつつあるということを。
そして、とりわけ、
日本のエネルギー安全保障が
危機的な状況にさらされているのです。
「エネルギー安全保障なんて、
自分には馴染みがない」
と思われがちですが、、、
あの独裁者ヒトラーや戦前の日本人も、
戦争に追い込まれてしまったきっかけは、
エネルギー安全保障だったのです。
一体なぜ、ヒトラーも戦前の日本人も
エネルギー安全保障が原因で
戦争に追い込まれてしまったのか?
現代の日本でエネルギー安全保障が
失われてしまうとどのように危険なのか?
詳しい内容は、
こちらをクリックして
ご確認いただけます。
パワーゲームメルマガより
日本が総力を尽くして戦った太平洋戦争(大東亜戦争)は日本の徹底的な敗北で幕を閉じました。
敗戦後、しばらく打ちひしがれていた国民は新たな「日本の生き筋」を見出します。
「日本は戦争に敗けたが、これからは経済で勝負だ!」
文字通り国民が一丸となって経済復興に取り組みます。
この、「経済に集中して生きる」という発想は、吉田ドクトリンと呼ばれる、吉田茂首相の方針に沿ったものでもありました。
1952年、サンフランシスコ講和条約で日本の独立が実現すると、吉田首相は同時に日米安保条約を調印します。
日本に米軍が基地を置くこと、つまり、米軍が広範に日本列島に展開し続けることを許し、
日本の安全保障をアメリカに委ねることで、日本は自律的な安全保障の重圧から逃れて、経済にまい進するという発想です。
この方針は大成功を納めますが、晩年の吉田は、自らの戦略が
安全保障に無頓着な国民を作り出してしまったことを認めて、後悔していました。
しかし、日本は吉田の嘆きをよそに、驚異的な経済発展を遂げ、
アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に上り詰めます。
今の若い世代は、この元気が良かった時代の日本を知らず、
バブル期が異常なだけだったと考えていますが、かつての日本は本当に元気だったのです。
20代前半でバブル期に遭遇した私はその当時の日本の勢いを記憶しています。
この戦後の繁栄についてジョージタウン大学のケビン・ドーク教授は、「日本人を享楽的にした」と評しています。
それは正しい指摘だと思います。
すっかり敗戦に懲りた日本人は、「平和とは戦争について一切考えないこと」と言わんばかりの態度を取るようになりました。
そして、これは私の意見ですが、独特のサラリーマン気質を作り出しました。
模範的なサラリーマンは、政治や国際情勢、ましてや安全保障政策などについては一切考えず、
ひたすら目の前の仕事に取り組むべき、という発想です。
栄養ドリンクのCMソングのごとく、24時間闘い続ける日本人サラリーマン。
政治、まして国際政治などお上が考えることで、サラリーマンが考えることではない。
ひたすら目の前の仕事、仕事、仕事。
それが日本人サラリーマンの美学。
20世紀の間はそれでも何とかなりましたが、21世紀に入って世界は急激に変わっていきました。
対応できなかった日本企業はどんどん没落し、日本経済はGDPで中国に追い越されました。
世界第三位でも立派な経済大国ですが、何しろ活気を失いました。
しかし、サラリーマンの美学は変わりません。
世界情勢の変化は、ビジネスに関係しない限りは関知しません。
パワーゲームメルマガを読んでいる方々にとって、
今や中国が戦後最大の脅威であることは常識ですが、
経団連に象徴されるように、日本の企業人の多くは、未だに中国の脅威の本質を理解せず
中国市場でいかに儲けるかばかりに腐心しています。
大企業でも、国際情勢の変化を全く理解していません。
それはサラリーマンの本分ではないと考えているのでしょう。
私自身も、親しくしていたある精密機械企業の幹部の方と話して愕然としました。
「何百人もの中国人研修生を抱えているけど、中国の脅威なんて考えたこともないよ。
君は日本の文化が素晴らしいと思って、
日本文化を守りたいから
そんなことを言ってるだけじゃないの?
中国の覇権主義?世界史を見れば、人間の歴史なんてそんなものじゃないかな?
僕は中国に関しては、あの巨大な市場をどう開拓するかしか考えていない。
昔から、与えられた枠の内側でしか考えないようにしてきたからね」
この方は明らかに中国の脅威の本質を理解していません。
中国の脅威は、台湾や尖閣諸島に迫る軍事的圧力だけではありません。
中国の脅威の本質は、何でもありの「超限戦」です。
軍事、民事の枠を超えた際限のない戦争行為です。
そして、中でも重要な位置を占めるのが、経済を利用した戦争です。
我々は、経済的な相互依存が進めば進むほど、世界は戦争ができず、平和になると教わってきました。
しかしそれは、あまりにもナィーブな発想であることがはっきりしました。
今、 習近平の指導の下で中国が推進しているのは、中国は外国に依存せずに自立する一方で、
世界には可能な限り中国に依存させることです。
外国が中国に依存すれば依存するほど 、中国はそれを逆手にとって、その国に影響工作を仕掛けることができるからです。
つまり、相互依存は平和への道ではなく、悪意ある独裁国家に弱みを握られることなのです。
経済を使って相手国を操作しようとすることを「エコノミック・ステートクラフト」と言います。
そのような攻撃からの防衛策を講じることを「経済安全保障」といいます。
日本では、この経済安全保障という概念が、やっと政府レベルで理解され始めたばかりです。
そして、エコノミック・ステートクラフトの一環として、企業が狙われます。
世界中で中小企業も大企業も、中国共産党と繋がった企業や組織や個人によって、乗っ取りの危機に瀕しています。
その手口は極めて巧妙で多岐に渡ります。賄賂やハニートラップだけではありません。
それらの手口を真剣に研究して学ばなければ、防衛することができません。
我々日本人が、いや、世界中のほとんどの人が想像もしないようなトラップを仕掛けてきます。
戦後一貫して、戦争や安全保障のことは忘れて経済一本やりで生きて来た日本人。
それが正しい生き方だと信じ、 与えられた枠の中でしか考えない習慣を身に着けた日本的サラリーマンの美学。
その結果、未だに中国の脅威を認識できない日本の企業人。
戦争は、自分たちが侵略戦争を仕掛けなければ始まらないと信じている日本人。
経済に命をかけて生きて来たのに、長年の経済的低迷に悩んだあげく、
その経済が自分たちに対する戦争の武器として使われるとしたら、何という皮肉でしょうか?
はたして日本人は、日本企業は、この新しい形の戦争から身を守ることができるでしょうか?
今のままでは無理でし ょう。
ひとりでも多くの日本人が、独裁国家による経済を利用した戦争の脅威を認識しなければ、
もうすぐ手遅れになってしまうでしょう。
文章:山岡 鉄秀
敗戦後、しばらく打ちひしがれていた国民は新たな「日本の生き筋」を見出します。
「日本は戦争に敗けたが、これからは経済で勝負だ!」
文字通り国民が一丸となって経済復興に取り組みます。
この、「経済に集中して生きる」という発想は、吉田ドクトリンと呼ばれる、吉田茂首相の方針に沿ったものでもありました。
1952年、サンフランシスコ講和条約で日本の独立が実現すると、吉田首相は同時に日米安保条約を調印します。
日本に米軍が基地を置くこと、つまり、米軍が広範に日本列島に展開し続けることを許し、
日本の安全保障をアメリカに委ねることで、日本は自律的な安全保障の重圧から逃れて、経済にまい進するという発想です。
この方針は大成功を納めますが、晩年の吉田は、自らの戦略が
安全保障に無頓着な国民を作り出してしまったことを認めて、後悔していました。
しかし、日本は吉田の嘆きをよそに、驚異的な経済発展を遂げ、
アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に上り詰めます。
今の若い世代は、この元気が良かった時代の日本を知らず、
バブル期が異常なだけだったと考えていますが、かつての日本は本当に元気だったのです。
20代前半でバブル期に遭遇した私はその当時の日本の勢いを記憶しています。
この戦後の繁栄についてジョージタウン大学のケビン・ドーク教授は、「日本人を享楽的にした」と評しています。
それは正しい指摘だと思います。
すっかり敗戦に懲りた日本人は、「平和とは戦争について一切考えないこと」と言わんばかりの態度を取るようになりました。
そして、これは私の意見ですが、独特のサラリーマン気質を作り出しました。
模範的なサラリーマンは、政治や国際情勢、ましてや安全保障政策などについては一切考えず、
ひたすら目の前の仕事に取り組むべき、という発想です。
栄養ドリンクのCMソングのごとく、24時間闘い続ける日本人サラリーマン。
政治、まして国際政治などお上が考えることで、サラリーマンが考えることではない。
ひたすら目の前の仕事、仕事、仕事。
それが日本人サラリーマンの美学。
20世紀の間はそれでも何とかなりましたが、21世紀に入って世界は急激に変わっていきました。
対応できなかった日本企業はどんどん没落し、日本経済はGDPで中国に追い越されました。
世界第三位でも立派な経済大国ですが、何しろ活気を失いました。
しかし、サラリーマンの美学は変わりません。
世界情勢の変化は、ビジネスに関係しない限りは関知しません。
パワーゲームメルマガを読んでいる方々にとって、
今や中国が戦後最大の脅威であることは常識ですが、
経団連に象徴されるように、日本の企業人の多くは、未だに中国の脅威の本質を理解せず
中国市場でいかに儲けるかばかりに腐心しています。
大企業でも、国際情勢の変化を全く理解していません。
それはサラリーマンの本分ではないと考えているのでしょう。
私自身も、親しくしていたある精密機械企業の幹部の方と話して愕然としました。
「何百人もの中国人研修生を抱えているけど、中国の脅威なんて考えたこともないよ。
君は日本の文化が素晴らしいと思って、
日本文化を守りたいから
そんなことを言ってるだけじゃないの?
中国の覇権主義?世界史を見れば、人間の歴史なんてそんなものじゃないかな?
僕は中国に関しては、あの巨大な市場をどう開拓するかしか考えていない。
昔から、与えられた枠の内側でしか考えないようにしてきたからね」
この方は明らかに中国の脅威の本質を理解していません。
中国の脅威は、台湾や尖閣諸島に迫る軍事的圧力だけではありません。
中国の脅威の本質は、何でもありの「超限戦」です。
軍事、民事の枠を超えた際限のない戦争行為です。
そして、中でも重要な位置を占めるのが、経済を利用した戦争です。
我々は、経済的な相互依存が進めば進むほど、世界は戦争ができず、平和になると教わってきました。
しかしそれは、あまりにもナィーブな発想であることがはっきりしました。
今、 習近平の指導の下で中国が推進しているのは、中国は外国に依存せずに自立する一方で、
世界には可能な限り中国に依存させることです。
外国が中国に依存すれば依存するほど 、中国はそれを逆手にとって、その国に影響工作を仕掛けることができるからです。
つまり、相互依存は平和への道ではなく、悪意ある独裁国家に弱みを握られることなのです。
経済を使って相手国を操作しようとすることを「エコノミック・ステートクラフト」と言います。
そのような攻撃からの防衛策を講じることを「経済安全保障」といいます。
日本では、この経済安全保障という概念が、やっと政府レベルで理解され始めたばかりです。
そして、エコノミック・ステートクラフトの一環として、企業が狙われます。
世界中で中小企業も大企業も、中国共産党と繋がった企業や組織や個人によって、乗っ取りの危機に瀕しています。
その手口は極めて巧妙で多岐に渡ります。賄賂やハニートラップだけではありません。
それらの手口を真剣に研究して学ばなければ、防衛することができません。
我々日本人が、いや、世界中のほとんどの人が想像もしないようなトラップを仕掛けてきます。
戦後一貫して、戦争や安全保障のことは忘れて経済一本やりで生きて来た日本人。
それが正しい生き方だと信じ、 与えられた枠の中でしか考えない習慣を身に着けた日本的サラリーマンの美学。
その結果、未だに中国の脅威を認識できない日本の企業人。
戦争は、自分たちが侵略戦争を仕掛けなければ始まらないと信じている日本人。
経済に命をかけて生きて来たのに、長年の経済的低迷に悩んだあげく、
その経済が自分たちに対する戦争の武器として使われるとしたら、何という皮肉でしょうか?
はたして日本人は、日本企業は、この新しい形の戦争から身を守ることができるでしょうか?
今のままでは無理でし ょう。
ひとりでも多くの日本人が、独裁国家による経済を利用した戦争の脅威を認識しなければ、
もうすぐ手遅れになってしまうでしょう。
文章:山岡 鉄秀
伊勢雅臣「パワーゲーム」メルマガより
機密漏洩でスターリンの
手玉にとられた日本
From:伊勢雅臣
■1.国家機密保護と平和維持■
特定機密保護法案に対する
マスコミの激しい反対は
いかにも異様だった。
朝日新聞は2013年
8月から12月半ばまでに、
反対意見を社説25本、
天声人語7回も使って反対した。
読者投稿欄にも
11月、12月の2ヶ月で
反対意見が69本も載ったという。[1]
中国漁船衝突の映像が流出した時に
朝日社説は
「仮に非公開の方針に批判的な
捜査機関の何者かが
流出させたのだとしたら、
政府や国会の意思に反することであり、
許されない」と述べた。
民主党政権時からの
臆面もない豹変振りは見事ですらある。
朝日新聞などの一部マスコミは、
特定秘密保護法によって、
戦前の「軍国主義」に戻るかのような
反対をしているが、
弊誌は全く逆の主張をしたい。
戦前の日本も
国家機密保護がまるで出来ておらず、
そのためにスターリンのソ連に手玉にとられ、
戦争に引きずり込まれたのだ、と。
第二次大戦での歴史を
きちんと反省すれば、
機密保護法の意義も明らかになる。
今回は、この観点から
史実を振り返ってみよう。
■2.「欧州情勢は複雑怪奇」
で総辞職した平沼内閣■
1939(昭和14)年8月23日、
それまで仇敵であったドイツとソ連が突如、
独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かせた。
その裏には、秘密議定書があり、
バルト3国、ルーマニア東部、フィンランドを
ソ連に勢力圏に入れ、
ポーランドを両国で分割占領することが
取り決められていた。
それに従って9月1日に
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、
同盟国であったイギリスとフランスが
9月3日にドイツに宣戦布告した。
これが第2次大戦の始まりである。
しかし、9月17日には
ソ連軍もポーランド領に攻め込んでいる。
日本軍の真珠湾攻撃による
大東亜戦争が始まったのは、
この2年近くも後である。
日米が戦わなければ、
第2次大戦は、第1次大戦と同様の
欧州内の戦争となり、
我が国は甚大な被害は
負わずに済んだはずである。
しかし、残念ながら
我が国にはそのような
巧みな外交はできなかった。
他国の動きを探り、
自国の機密を守るという
諜報・防諜能力が、
きわめて弱かったためである。
独ソ不可侵条約が発表されるや、
その5日後、平沼騏一郎内閣は
「欧州情勢は複雑怪奇」
との言葉を残して総辞職した。
そもそも日本は、
ソ連を仮想敵国として、
ドイツと日独防共協定を結び、
さらにその強化を目指していたのに、
そのドイツとソ連が
結託してしまったのである。
ドイツやソ連の動きが
まったく見えていなかった事実を、
内閣総辞職という形で
世界に晒したのであった。
しかも「欧州情勢は複雑怪奇」などと
正直に吐露してしまう姿勢は、
策謀渦巻く国際社会とは
異次元のナイーブさであった。
■3.日独交渉過程が
スターリンには筒抜けになっていた■
日本からはソ連の動きが
まったく見えていなかったが、
スターリンには
日独防共協定の交渉過程が
筒抜けになっていた。
当時、東京-ベルリン間で
暗号化された秘密電報を
やりとりしていたのだが、
ソ連の諜報機関がベルリンで
その文書のファイルを写真にとり、
かつモスクワの日本大使館から
暗号解読書を盗み出していたのである。
その活動を指揮していた
ソ連秘密警察諜報部の
ワルター・クリヴィッキーが、
後にスターリンの内部粛清に反発して
アメリカに亡命し、
回想録を出版して、
その活動実態を暴露したものだ。
クリヴィッキーらの諜報活動で、
この「防共協定」が
表向きこそ国際共産主義運動に
日独で対抗するという内容だが、
その裏に秘密付属協定があり、
日独両国がソ連からの攻撃
またはその脅威を受けた場合に、
ソ連の「負担を軽からしめる」一
切の措置を講じないことを約束していた。
ソ連にとっての悪夢は、
ドイツと日本の東西二正面から
脅威を受けることであった。
日独防共協定で、
まさにその危険が現実化しつつあることを
スターリンは掴み、その調印直後に、
ベルリン駐在通商使節に、
いかなる対価を払ってもよいから、
ヒトラーとの協定に到達するように、と命じた。
ヒトラー自身は
共産主義のソ連に対する
根強い敵意を持っていたのだが、
外相リッペントロップ、ドイツ外務省、海軍は
親ソ反英路線であり、
スターリンは後者の勢力と結んで、
1939(昭和14)年8月に
独ソ不可侵条約に漕ぎつけたのだった。
日本政府は、
こうしたスターリンの暗躍も、
ドイツ政府内の二つの対立路線も把握しておらず、
それまでの日独防共協定で
ソ連を仮想敵とする体制が固まった
とばかり思っていたので、
突然の独ソ不可侵条約に、
「欧州情勢は複雑怪奇」
としか言いようがなかったのである。
■4.翻弄された日本■
これ以降、ヒトラーとスターリンの
二人の独裁者の化かし合いが続き、
日本政府は翻弄されるのであるが、
事態が2転3転して
まさに「複雑怪奇」になるので、
まず年表風に整理しておこう。
1936(昭和11)年11月25日
日独防共協定締結
1939(昭和14)年8月23日
独ソ不可侵条約締結
1941(昭和16)年4月13日
日ソ中立条約締結
同年 6月22日
独ソ開戦
独ソ不可侵条約を結びながら、
わずか1年半後に一転して
ヒトラーが対ソ戦に踏み切ったのは、
ソ連が秘密協定に入っていない
ルーマニアの一地方を割譲させたことを
協定違反とし、
またソ連が軍備増強を進めている事を
開戦準備と受け止めたからである。
この年表を見ると、日本が尽く、
後手後手に回っているのが分かる。
日独防共協定で
ソ連を仮想敵国としてドイツと結んだが、
その3年後には、
ドイツとソ連が急に組んでしまい、
はしごをはずされた形となる。
そしてドイツから、
日独伊ソの「4国同盟」案を持ちかけられ、
日ソ中立条約を結んだ途端、
今度は独ソ開戦である。
独ソ開戦後、スターリンが恐れ、
ヒットラーが切望したのは
日本が日ソ中立条約を破って、
ソ連に侵攻することであった。
しかし、もし日本が対米英戦争に踏みきり、
ソ連攻撃を仕掛けないならば、
極東ソ連軍を対独戦に回すことができる。
日本が南進するか北進するのか、
それがスターリンにとって、
生き残りをかけた分岐点だった。
■5.スターリンの謀略■
スターリンはこの分岐点に関して、
二つの手段をとった。
第1は日本を蒋介石政権、
さらにはアメリカと戦わせて
南進させようという謀略工作、
第2は日本政府の機密情報を盗みだし、
その意向を探る、という諜報手段である。
第1の日本と米中を戦わせる
謀略工作については、
すでに弊誌で取り上げた。
朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)に
世論工作をさせて
日本と蒋介石政権の日支事変を煽った。
さらに尾崎は近衛内閣のブレーンともなって、
対中和平工作を妨害し、
日本と蒋介石政権を共倒れにさせ、
中国共産党に漁夫の利を与えようとした。
スターリンは同時に
米ルーズベルト政権の中枢にも
スパイを送り込み、
日本を対米戦争に追い込む
工作をさせた。
日本に対米戦争を覚悟させた
ハル・ノートの原案作成者である
財務次官ハリー・デクスター・ホワイトも
ソ連のスパイであったことが、
戦後明らかになっている。
日本が蒋介石政権との戦いで
泥沼に引きずり込まれ、
さらには日米戦争に至ったのは、
スターリンの謀略が見事に当たったからである。
■6.筒抜けになっていた日本の動き■
もう一つ、スターリンは
日本政府の動きをスパイに探らせて、
北進か南進かの意図を掴もうとした。
そのために複数の諜報ルートを使っていた。
一つは『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の
東京特派員リヒャルト・ゾルゲとその一味。
ゾルゲは駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得て、
その私的顧問の形で、
多くの機密情報を入手し、
尾崎が日本政府筋から集めた
国家機密とともに、ソ連に送っていた。
このゾルゲ一味が、
昭和16(1941)年9月6日の御前会議で決定された
米英蘭を相手として南進する決定を
スターリンに伝えていたのである。
昭和16(1941)年10月に
ゾルゲ、尾崎以下、実に35名が検挙され、
ゾルゲは日本で死刑にされたが、
戦後、1964(昭和39)年に
「ソ連邦英雄勲章」が授与されている。
もう一つの諜報ルートは、
「エコノミスト」という
コードネームで呼ばれていた日本人スパイである。
「エコノミスト」は
北樺太石油会社の幹部であったようで、
9月2日に同社で開かれた午餐会で、
左近司(さこんじ)政三・商工大臣の
発言内容をソ連に伝えた。
それは「日本政府の
アメリカとの和平交渉が難航しつつあり、
このままでは日米開戦となる。
その場合、ソ連とは
和平を維持することになろう」
という内容であった。
左近司大臣は御前会議の数日前に、
その見通しを漏らしてしまったのである。
これらの情報を許に、
スターリンは日本の対ソ攻撃はないと判断し、
極東ソ連軍を欧州戦線に振り向けた。
当時の極東ソ連軍の規模は、
総兵力80万、戦車約千両、飛行機約千機と
推定されているが、
その三分の一程度が
西送された模様である。
当時の独ソ戦線は
ほぼ膠着状態にあったが、
ソ連軍は12月初旬から冬期大反攻を開始し、
ここからドイツ軍の敗退が始まる。
極寒での戦いに慣れた
極東ソ連軍の貢献が
大きかったと推察されている。
ドイツの降伏後、ソ連軍の相当部分は再び、
対日攻撃のために極東に送られた。
その間も、日本はソ連に和平仲介を依頼する、
という間の抜けた外交を続けていた。
極東ソ連軍は日ソ中立条約を無視して、
日本の降伏直前に満洲を襲い、
多くの在留邦人が犠牲となった。
■7.真の敵を見誤った日本■
スターリンは、
恐れていた日独との両面戦争を巧みに避けて、
個別撃破に成功した。
その結果が、
東欧と中国の共産化であった。
アメリカが中国市場を失い、
蒋介石も台湾に閉じ込められた事を考えれば、
第2次大戦の勝者はスターリンだけであった。
そして、その勝利は
多分に優れた諜報能力によるものなのである。
ゾルゲ事件に関して、
スパイ取り締まりを担当していた
特別高等警察(特高)の第一課係長であった
宮下弘は、その捜査で
一年以上かかってしまった事を回想して、
次のように述べている。
__________
もしゾルゲ事件の検挙が
半年以前に行われていたとしたら、
シナの背後にいるのが米英でなく、
つまり、国共合作した蒋介石を援助して
日本と戦争させているのが、
米英ではなくソ連だ、
ということがはっきりわかったでしょうから、
対米英宣戦布告などという
バカげたことは、
あるいは起こらなかったかもしれない。[2,p143]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
一方、ソ連は、
イギリス外務省から東京のイギリス大使館に送られた
次のような指示も情報入手していた。
__________
・・・もしこの(JOG注:日本による)ロシアへの攻撃が
極東で行われたとすれば、
いかなるバリアント(選択肢)も
日本との自動的な国交断絶を伴うものではない。
ソ同盟と我国との取決めは
対ドイツに限定され、
日本がロシアと戦争をする場合には、
日本との国交断絶をするいかなる義務もない。 [2,p196]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日本の真の敵はソ連であった。
ソ連に対する満洲からの軍事圧力を強めても、
米英との対立が強まる恐れはなかった。
逆にソ連は日独との
2方面への対応で余力を使い果たして、
蒋介石政権を援助する余裕は
なくなっていただろう。
そうなれば、後ろ盾を失った蒋介石政権との和解も
可能であったかもしれず、
そうなれば米英が対日批判する理由もなくなり、
対米英和解の道も
大きく広がったであろう。
いずれにせよ、欧州での戦争に
日本が巻き込まれる必要は何もなかった。
諜報・防諜能力の不足から、
スターリンの手玉に取られて、
真の敵を見誤り、
米英中と戦ってしまったのである。
■8.我が国の独立と安全を守る諜報・防諜能力■
スターリンの勝利の結果、
東欧と中国が共産化し、
さらに朝鮮戦争やベトナム戦争が起こった。
共産主義国内での内戦・粛正・弾圧も含めれば、
共産主義による犠牲者は
8千万から1億5千万人に及ぶとされている。
これは第2次大戦の犠牲者
約6千万人を上回る。
その責任の一端は、敵を見誤って
アジアでの共産主義の膨張を防げなかった
我が国にもある。
そして失敗の一因は、
諜報・防諜能力の決定的な欠如にあった。
この「歴史の反省」は、
現代にも重大な意味を持つ。
現在の日本の安全と独立への
最大の脅威は中国である。
しかるに、沖縄の米軍基地闘争や、
偏向マスコミによる反米報道は
真の敵を見誤らせてしまう。
ちょうど、朝日新聞記者・尾崎秀實が、
スターリンの手先として
蒋介石政権との戦いを煽り、
和平への動きを妨害したのと、
同じ構図である。
我が国の独立と安全を守るには、
領土・国民を守りうる軍事力とともに、
政治・外交を正しい方向に導くための
諜報・防諜能力の構築が不可欠なのである。
冒頭で朝日新聞の
特定機密保護法案に対する
異様な報道を紹介したが、
民主党政権時代の
中国漁船衝突の映像流出を
「許されない」とした批判と
考え合わせれば、
朝日が本気で
報道の自由を守ろう
としているとは信じられない。
朝日新聞は大先輩の尾崎秀實の先例に従って、
我が国の独立と安全を脅かそうとしている
中国のために、
特定秘密保護法案反対の
論陣を張ったのでは、
と疑うのは、穿ち過ぎであろうか。
(文責 伊勢雅臣)
■参考■
1. 柿谷勲夫
「秘密保護法反対で朝日大狂乱」、
『WiLL』、H26.3
2. 三宅正樹
『スターリンの対日情報工作』、
平凡社新書、H22
手玉にとられた日本
From:伊勢雅臣
■1.国家機密保護と平和維持■
特定機密保護法案に対する
マスコミの激しい反対は
いかにも異様だった。
朝日新聞は2013年
8月から12月半ばまでに、
反対意見を社説25本、
天声人語7回も使って反対した。
読者投稿欄にも
11月、12月の2ヶ月で
反対意見が69本も載ったという。[1]
中国漁船衝突の映像が流出した時に
朝日社説は
「仮に非公開の方針に批判的な
捜査機関の何者かが
流出させたのだとしたら、
政府や国会の意思に反することであり、
許されない」と述べた。
民主党政権時からの
臆面もない豹変振りは見事ですらある。
朝日新聞などの一部マスコミは、
特定秘密保護法によって、
戦前の「軍国主義」に戻るかのような
反対をしているが、
弊誌は全く逆の主張をしたい。
戦前の日本も
国家機密保護がまるで出来ておらず、
そのためにスターリンのソ連に手玉にとられ、
戦争に引きずり込まれたのだ、と。
第二次大戦での歴史を
きちんと反省すれば、
機密保護法の意義も明らかになる。
今回は、この観点から
史実を振り返ってみよう。
■2.「欧州情勢は複雑怪奇」
で総辞職した平沼内閣■
1939(昭和14)年8月23日、
それまで仇敵であったドイツとソ連が突如、
独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かせた。
その裏には、秘密議定書があり、
バルト3国、ルーマニア東部、フィンランドを
ソ連に勢力圏に入れ、
ポーランドを両国で分割占領することが
取り決められていた。
それに従って9月1日に
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、
同盟国であったイギリスとフランスが
9月3日にドイツに宣戦布告した。
これが第2次大戦の始まりである。
しかし、9月17日には
ソ連軍もポーランド領に攻め込んでいる。
日本軍の真珠湾攻撃による
大東亜戦争が始まったのは、
この2年近くも後である。
日米が戦わなければ、
第2次大戦は、第1次大戦と同様の
欧州内の戦争となり、
我が国は甚大な被害は
負わずに済んだはずである。
しかし、残念ながら
我が国にはそのような
巧みな外交はできなかった。
他国の動きを探り、
自国の機密を守るという
諜報・防諜能力が、
きわめて弱かったためである。
独ソ不可侵条約が発表されるや、
その5日後、平沼騏一郎内閣は
「欧州情勢は複雑怪奇」
との言葉を残して総辞職した。
そもそも日本は、
ソ連を仮想敵国として、
ドイツと日独防共協定を結び、
さらにその強化を目指していたのに、
そのドイツとソ連が
結託してしまったのである。
ドイツやソ連の動きが
まったく見えていなかった事実を、
内閣総辞職という形で
世界に晒したのであった。
しかも「欧州情勢は複雑怪奇」などと
正直に吐露してしまう姿勢は、
策謀渦巻く国際社会とは
異次元のナイーブさであった。
■3.日独交渉過程が
スターリンには筒抜けになっていた■
日本からはソ連の動きが
まったく見えていなかったが、
スターリンには
日独防共協定の交渉過程が
筒抜けになっていた。
当時、東京-ベルリン間で
暗号化された秘密電報を
やりとりしていたのだが、
ソ連の諜報機関がベルリンで
その文書のファイルを写真にとり、
かつモスクワの日本大使館から
暗号解読書を盗み出していたのである。
その活動を指揮していた
ソ連秘密警察諜報部の
ワルター・クリヴィッキーが、
後にスターリンの内部粛清に反発して
アメリカに亡命し、
回想録を出版して、
その活動実態を暴露したものだ。
クリヴィッキーらの諜報活動で、
この「防共協定」が
表向きこそ国際共産主義運動に
日独で対抗するという内容だが、
その裏に秘密付属協定があり、
日独両国がソ連からの攻撃
またはその脅威を受けた場合に、
ソ連の「負担を軽からしめる」一
切の措置を講じないことを約束していた。
ソ連にとっての悪夢は、
ドイツと日本の東西二正面から
脅威を受けることであった。
日独防共協定で、
まさにその危険が現実化しつつあることを
スターリンは掴み、その調印直後に、
ベルリン駐在通商使節に、
いかなる対価を払ってもよいから、
ヒトラーとの協定に到達するように、と命じた。
ヒトラー自身は
共産主義のソ連に対する
根強い敵意を持っていたのだが、
外相リッペントロップ、ドイツ外務省、海軍は
親ソ反英路線であり、
スターリンは後者の勢力と結んで、
1939(昭和14)年8月に
独ソ不可侵条約に漕ぎつけたのだった。
日本政府は、
こうしたスターリンの暗躍も、
ドイツ政府内の二つの対立路線も把握しておらず、
それまでの日独防共協定で
ソ連を仮想敵とする体制が固まった
とばかり思っていたので、
突然の独ソ不可侵条約に、
「欧州情勢は複雑怪奇」
としか言いようがなかったのである。
■4.翻弄された日本■
これ以降、ヒトラーとスターリンの
二人の独裁者の化かし合いが続き、
日本政府は翻弄されるのであるが、
事態が2転3転して
まさに「複雑怪奇」になるので、
まず年表風に整理しておこう。
1936(昭和11)年11月25日
日独防共協定締結
1939(昭和14)年8月23日
独ソ不可侵条約締結
1941(昭和16)年4月13日
日ソ中立条約締結
同年 6月22日
独ソ開戦
独ソ不可侵条約を結びながら、
わずか1年半後に一転して
ヒトラーが対ソ戦に踏み切ったのは、
ソ連が秘密協定に入っていない
ルーマニアの一地方を割譲させたことを
協定違反とし、
またソ連が軍備増強を進めている事を
開戦準備と受け止めたからである。
この年表を見ると、日本が尽く、
後手後手に回っているのが分かる。
日独防共協定で
ソ連を仮想敵国としてドイツと結んだが、
その3年後には、
ドイツとソ連が急に組んでしまい、
はしごをはずされた形となる。
そしてドイツから、
日独伊ソの「4国同盟」案を持ちかけられ、
日ソ中立条約を結んだ途端、
今度は独ソ開戦である。
独ソ開戦後、スターリンが恐れ、
ヒットラーが切望したのは
日本が日ソ中立条約を破って、
ソ連に侵攻することであった。
しかし、もし日本が対米英戦争に踏みきり、
ソ連攻撃を仕掛けないならば、
極東ソ連軍を対独戦に回すことができる。
日本が南進するか北進するのか、
それがスターリンにとって、
生き残りをかけた分岐点だった。
■5.スターリンの謀略■
スターリンはこの分岐点に関して、
二つの手段をとった。
第1は日本を蒋介石政権、
さらにはアメリカと戦わせて
南進させようという謀略工作、
第2は日本政府の機密情報を盗みだし、
その意向を探る、という諜報手段である。
第1の日本と米中を戦わせる
謀略工作については、
すでに弊誌で取り上げた。
朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)に
世論工作をさせて
日本と蒋介石政権の日支事変を煽った。
さらに尾崎は近衛内閣のブレーンともなって、
対中和平工作を妨害し、
日本と蒋介石政権を共倒れにさせ、
中国共産党に漁夫の利を与えようとした。
スターリンは同時に
米ルーズベルト政権の中枢にも
スパイを送り込み、
日本を対米戦争に追い込む
工作をさせた。
日本に対米戦争を覚悟させた
ハル・ノートの原案作成者である
財務次官ハリー・デクスター・ホワイトも
ソ連のスパイであったことが、
戦後明らかになっている。
日本が蒋介石政権との戦いで
泥沼に引きずり込まれ、
さらには日米戦争に至ったのは、
スターリンの謀略が見事に当たったからである。
■6.筒抜けになっていた日本の動き■
もう一つ、スターリンは
日本政府の動きをスパイに探らせて、
北進か南進かの意図を掴もうとした。
そのために複数の諜報ルートを使っていた。
一つは『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の
東京特派員リヒャルト・ゾルゲとその一味。
ゾルゲは駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得て、
その私的顧問の形で、
多くの機密情報を入手し、
尾崎が日本政府筋から集めた
国家機密とともに、ソ連に送っていた。
このゾルゲ一味が、
昭和16(1941)年9月6日の御前会議で決定された
米英蘭を相手として南進する決定を
スターリンに伝えていたのである。
昭和16(1941)年10月に
ゾルゲ、尾崎以下、実に35名が検挙され、
ゾルゲは日本で死刑にされたが、
戦後、1964(昭和39)年に
「ソ連邦英雄勲章」が授与されている。
もう一つの諜報ルートは、
「エコノミスト」という
コードネームで呼ばれていた日本人スパイである。
「エコノミスト」は
北樺太石油会社の幹部であったようで、
9月2日に同社で開かれた午餐会で、
左近司(さこんじ)政三・商工大臣の
発言内容をソ連に伝えた。
それは「日本政府の
アメリカとの和平交渉が難航しつつあり、
このままでは日米開戦となる。
その場合、ソ連とは
和平を維持することになろう」
という内容であった。
左近司大臣は御前会議の数日前に、
その見通しを漏らしてしまったのである。
これらの情報を許に、
スターリンは日本の対ソ攻撃はないと判断し、
極東ソ連軍を欧州戦線に振り向けた。
当時の極東ソ連軍の規模は、
総兵力80万、戦車約千両、飛行機約千機と
推定されているが、
その三分の一程度が
西送された模様である。
当時の独ソ戦線は
ほぼ膠着状態にあったが、
ソ連軍は12月初旬から冬期大反攻を開始し、
ここからドイツ軍の敗退が始まる。
極寒での戦いに慣れた
極東ソ連軍の貢献が
大きかったと推察されている。
ドイツの降伏後、ソ連軍の相当部分は再び、
対日攻撃のために極東に送られた。
その間も、日本はソ連に和平仲介を依頼する、
という間の抜けた外交を続けていた。
極東ソ連軍は日ソ中立条約を無視して、
日本の降伏直前に満洲を襲い、
多くの在留邦人が犠牲となった。
■7.真の敵を見誤った日本■
スターリンは、
恐れていた日独との両面戦争を巧みに避けて、
個別撃破に成功した。
その結果が、
東欧と中国の共産化であった。
アメリカが中国市場を失い、
蒋介石も台湾に閉じ込められた事を考えれば、
第2次大戦の勝者はスターリンだけであった。
そして、その勝利は
多分に優れた諜報能力によるものなのである。
ゾルゲ事件に関して、
スパイ取り締まりを担当していた
特別高等警察(特高)の第一課係長であった
宮下弘は、その捜査で
一年以上かかってしまった事を回想して、
次のように述べている。
__________
もしゾルゲ事件の検挙が
半年以前に行われていたとしたら、
シナの背後にいるのが米英でなく、
つまり、国共合作した蒋介石を援助して
日本と戦争させているのが、
米英ではなくソ連だ、
ということがはっきりわかったでしょうから、
対米英宣戦布告などという
バカげたことは、
あるいは起こらなかったかもしれない。[2,p143]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
一方、ソ連は、
イギリス外務省から東京のイギリス大使館に送られた
次のような指示も情報入手していた。
__________
・・・もしこの(JOG注:日本による)ロシアへの攻撃が
極東で行われたとすれば、
いかなるバリアント(選択肢)も
日本との自動的な国交断絶を伴うものではない。
ソ同盟と我国との取決めは
対ドイツに限定され、
日本がロシアと戦争をする場合には、
日本との国交断絶をするいかなる義務もない。 [2,p196]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日本の真の敵はソ連であった。
ソ連に対する満洲からの軍事圧力を強めても、
米英との対立が強まる恐れはなかった。
逆にソ連は日独との
2方面への対応で余力を使い果たして、
蒋介石政権を援助する余裕は
なくなっていただろう。
そうなれば、後ろ盾を失った蒋介石政権との和解も
可能であったかもしれず、
そうなれば米英が対日批判する理由もなくなり、
対米英和解の道も
大きく広がったであろう。
いずれにせよ、欧州での戦争に
日本が巻き込まれる必要は何もなかった。
諜報・防諜能力の不足から、
スターリンの手玉に取られて、
真の敵を見誤り、
米英中と戦ってしまったのである。
■8.我が国の独立と安全を守る諜報・防諜能力■
スターリンの勝利の結果、
東欧と中国が共産化し、
さらに朝鮮戦争やベトナム戦争が起こった。
共産主義国内での内戦・粛正・弾圧も含めれば、
共産主義による犠牲者は
8千万から1億5千万人に及ぶとされている。
これは第2次大戦の犠牲者
約6千万人を上回る。
その責任の一端は、敵を見誤って
アジアでの共産主義の膨張を防げなかった
我が国にもある。
そして失敗の一因は、
諜報・防諜能力の決定的な欠如にあった。
この「歴史の反省」は、
現代にも重大な意味を持つ。
現在の日本の安全と独立への
最大の脅威は中国である。
しかるに、沖縄の米軍基地闘争や、
偏向マスコミによる反米報道は
真の敵を見誤らせてしまう。
ちょうど、朝日新聞記者・尾崎秀實が、
スターリンの手先として
蒋介石政権との戦いを煽り、
和平への動きを妨害したのと、
同じ構図である。
我が国の独立と安全を守るには、
領土・国民を守りうる軍事力とともに、
政治・外交を正しい方向に導くための
諜報・防諜能力の構築が不可欠なのである。
冒頭で朝日新聞の
特定機密保護法案に対する
異様な報道を紹介したが、
民主党政権時代の
中国漁船衝突の映像流出を
「許されない」とした批判と
考え合わせれば、
朝日が本気で
報道の自由を守ろう
としているとは信じられない。
朝日新聞は大先輩の尾崎秀實の先例に従って、
我が国の独立と安全を脅かそうとしている
中国のために、
特定秘密保護法案反対の
論陣を張ったのでは、
と疑うのは、穿ち過ぎであろうか。
(文責 伊勢雅臣)
■参考■
1. 柿谷勲夫
「秘密保護法反対で朝日大狂乱」、
『WiLL』、H26.3
2. 三宅正樹
『スターリンの対日情報工作』、
平凡社新書、H22