ハイクを詠め
願はくは 花の下にて 春死なむ
白梅かほる 如月のころ
以前から理想の死に様は「野垂れ死に」でした。
残念ながら今年はもう白梅の季節は過ぎてしまったので、
なんとか来年まで往生際悪くいこうと思ってます。
白梅かほる 如月のころ
以前から理想の死に様は「野垂れ死に」でした。
残念ながら今年はもう白梅の季節は過ぎてしまったので、
なんとか来年まで往生際悪くいこうと思ってます。
古典のススメ 番外編
昨晩は見事な満月が見られました。
満月は別名を望月ともいい、月の最も美しい状態、転じて待ち望まれた状態をさすたとえに用いられたりしました。
最も有名なのは藤原道長のこの歌ではないでしょうか。
この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば
この世(日本全体、とはいえ政治世界だけのこと)はあの欠けた部分のない満月のように、全て私のものだ
(青字部筆者意訳)
満月を楽しむ宴席で詠んだというこの歌に対して、道長は誰か返歌を作る者はないかと訊ねましたが、
時の最高権力者であり、酒の席とはいえその機嫌を損ねれば大変なことになると誰もが思い、返歌をする者はありませんでした。
そこで一計を案じた配下の者が、「大変素晴らしい歌です。皆で唱和いたしましょう」と言って、その場にいた全員で唱和したそうです。
ところが、日本最古の本人直筆の文献が残る道長の「御堂関白記」の中にこの歌のことは全く触れられていません。
ではなぜ、この歌がこれほどまでに有名に、まるで道長を代表する歌のように後世に残ってしまったのかというと、
その場にいた配下の藤原実資(ふじわらのさねすけ)が当日の日記に書き残してしまったからでした。
当時、同姓の藤原氏ではあっても藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の直系かどうかで身分の差は激しく、
紫式部の父、為時(ためとき)も漢学者ではあったものの身分は低く、同じ彰子に仕える女房衆から「身分の低い出の癖に」と疎まれていた、と「紫式部日記」にあります。
実資も藤原姓ではありましたが傍流の出で出世の機会には恵まれず、身分は低いままでした。
それだけに兼家直系で運にも恵まれた道長に対して、よい感情は抱いていなかったのかもしれません。
道長としては酔った勢いで思わず口走ってしまったこの歌を後世に残したくなかったのかもしれませんが、後の祭り。
みなさんも酒に飲まれないようお気をつけください。
満月は別名を望月ともいい、月の最も美しい状態、転じて待ち望まれた状態をさすたとえに用いられたりしました。
最も有名なのは藤原道長のこの歌ではないでしょうか。
この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば
この世(日本全体、とはいえ政治世界だけのこと)はあの欠けた部分のない満月のように、全て私のものだ
(青字部筆者意訳)
満月を楽しむ宴席で詠んだというこの歌に対して、道長は誰か返歌を作る者はないかと訊ねましたが、
時の最高権力者であり、酒の席とはいえその機嫌を損ねれば大変なことになると誰もが思い、返歌をする者はありませんでした。
そこで一計を案じた配下の者が、「大変素晴らしい歌です。皆で唱和いたしましょう」と言って、その場にいた全員で唱和したそうです。
ところが、日本最古の本人直筆の文献が残る道長の「御堂関白記」の中にこの歌のことは全く触れられていません。
ではなぜ、この歌がこれほどまでに有名に、まるで道長を代表する歌のように後世に残ってしまったのかというと、
その場にいた配下の藤原実資(ふじわらのさねすけ)が当日の日記に書き残してしまったからでした。
当時、同姓の藤原氏ではあっても藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の直系かどうかで身分の差は激しく、
紫式部の父、為時(ためとき)も漢学者ではあったものの身分は低く、同じ彰子に仕える女房衆から「身分の低い出の癖に」と疎まれていた、と「紫式部日記」にあります。
実資も藤原姓ではありましたが傍流の出で出世の機会には恵まれず、身分は低いままでした。
それだけに兼家直系で運にも恵まれた道長に対して、よい感情は抱いていなかったのかもしれません。
道長としては酔った勢いで思わず口走ってしまったこの歌を後世に残したくなかったのかもしれませんが、後の祭り。
みなさんも酒に飲まれないようお気をつけください。
紅白での衝撃をもういちど
私は映画TAKESHIESの中で初めて聞いたのですが、知ってはいたのに衝撃でした。
和田アキコでもこれには勝てない。
・・・というより紅組の中で唯一ぶつけられそうだったのが和田アキコしかいなかった、というのが妥当でしょうか。
ちょっと和田アキコが可哀想になってきます。
鋭く、しかも重く響いてくるこの「歌」を「歌える」のはやはりこの方だけのような気がします。
しかし私も「歌って」みたい。そんな「歌」です。